年号・西暦 | 記述 |
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神亀五年頃 (728年頃) |
泰澄上人により開山と伝わる(奈良時代) いつの頃からか常勝寺と名乗る |
応永三十三年 (1426年) |
慶春上人により再興(室町時代) |
永享元年 (1429年) |
後花園天皇から「如意輪山」の勅額を下賜される |
永正十三年 (1516年) |
小谷城築城、浅井家の祈願寺となる |
永禄十年 (1567年) |
浅井長政の元にお市の方が輿入れ |
元亀元年 (1570年) |
姉川の戦い (この戦いで小谷寺の一部が焼失も本尊や宝物は守られたと思われる) |
天正元年 (1573年) |
小谷城落城 |
天正四年 (1576年) |
羽柴秀吉よりの書状(小谷寺に現存) 「長浜城主となった秀吉が小谷寺に境内の現状を追認した寺地安堵状で小谷寺の存在がわかる最古の資料」 |
天正十年 (1582年) |
本能寺の変 |
天正十一年 (1583年) |
お市の方が越前北ノ庄にて自害 |
天正十三年 (1585年) |
豊臣秀吉朱印状(小谷寺に現存) 「近江八幡城主となった秀吉の甥、秀次に対し、小谷寺の寺領を保護すべきことを告げている」 |
天正十九年 (1591年) |
豊臣秀吉朱印状(小谷寺に現存) 「秀吉が小谷寺の所領(朱印地)を四十四石一斗三升と確定した朱印状で、この所領高が江戸時代における小谷寺の基礎となる」 |
文禄元年 (1592年) |
豊臣秀吉朱印状(小谷寺に現存) 「小谷寺からの陣中見舞い、銭百疋に対する秀吉の礼状」 |
文禄二年 (1593年) |
中興開山、勢傳法印により小谷寺が現在地に再建 |
慶長三年 (1598年) |
秀吉死去 |
慶長五年 (1600年) |
関ヶ原の戦い |
慶長七年 (1602年) |
徳川家康朱印状(小谷寺に現存) 「小谷寺の寺領安堵を示した内容」 |
慶長八年 (1603年) |
板倉勝重下知状(小谷寺に現存) 「京都所司代であった板倉勝重が小谷寺能化坊の住職を選定するよう依頼した内容」 |
元和元年 (1615年) |
豊臣家滅亡 |
承応三年 (1655年) |
小谷寺の釣鐘鋳造 |
寛文三年 (1663年) |
当寺第二世住職 亮仁法印(四代将軍家綱の施政期) |
不明 | 当寺第三世住職 政傳法印 |
寛文十二年 (1672年) |
当寺第四世住職 一空法印(五代将軍綱吉) |
享保五年 (1720年) |
当寺第五世住職 覚真法印(八代将軍吉宗) |
不明 | 当寺第六世住職 覚音法印 |
元文元年 (1736年) |
当寺第七世住職 瑞澄法印(九代将軍家重) |
明和二年 (1765年) |
当寺第八世住職 真乗法印(十代将軍家治) |
明和七年 (1770年) |
当寺第九世住職 元覚法印 |
天明八年 (1778年) |
当寺第十世住職 真瑞法印(十一代将軍家斉) |
不明 | 当寺第十一世住職 覚賢法印 |
不明 | 当寺第十二世住職 定識法印 |
明治十二年 (1879年) |
当寺第十三世住職 照見法印 |
明治三十八年 (1905年) |
当寺第十四世住職 照禅法印 |
昭和二十五年 (1950年) |
当寺第十五世住職 照圓法印 |
平成二十一年 (2009年) |
当寺第十六世住職 学臣法印(護国寺悉地院住職) |
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