その仏さまは、かすかな微笑をたたえた、小さなお姿でした。

人びとの目に決してふれることがなかったご本尊の、お厨子の扉がはじめてあけられたときのことです。中のお姿にあれこれ思いをはせてきた檀家の私たちが目の当たりにしたのは、思いのほかかわいい、小さな仏さまでした。

右足を左ひざにのせ、右の人差し指をそっとお顔近くに寄せ、ご自身で何か悩んでおられるのか、それとも、悩む人びとを救おうと優しく微笑んでおられるのか。

いつのころからか秘仏とされ、衆目にさらせば水の災いが起こると言い伝えられてきましたが、時代が変わり、先代のご住職がなくなられたあと、年に一度、十一月の七日間、開帳することになって十年が経とうとしています。

ご開帳の時期、近隣の方々だけでなく、今では、九州、北海道、台湾、韓国からも来ていただくようになっています。中には、毎年、会いに来るのが楽しみ、とおっしゃって、遠いところから欠かさず来られる方がいらっしゃいます。仏さまを目の前にして、ずっと手を合わせ、そっと語りかけ、そして涙ぐんでおられます。

北近江、湖北地方は昔から観音の里とも言われ、ここかしこに観音さまがおわします。地域の人たちがこれを敬い、戦国時代の戦禍からも身を挺して守ってこられました。手を失くした仏さま、頭をもがれた仏さまもいらっしゃいます。こうした土地柄ゆえか、当本尊も如意輪観音さまと呼ばれ、信仰を集めてきました。

他の観音さまのほとんどが木製であるのに対し、当寺のご本尊は青銅製で、お姿も明らかに異なります。半跏思惟(はんかしい)と云われる、かすかに微笑をたたえ、物思いにふけるお姿は、まさしく中宮寺、広隆寺の仏さまに通じるものがあります。

台座に十五世紀末の年号を示す記述があります。台座は後から取り換えられたものでしょう。本体は、七世紀ごろ朝鮮半島からもたらされた渡来仏の諸特徴を示すことから、国内はもとより、韓国の大学の先生方も調査にお見えになっています。

いつの時代のものであれ、どこのものであれ、そのすてきなお姿を拝したいと、来られる方々がいらっしゃいます。一年に一度だけ私たちの目の前にお出ましになるご本尊を見ていただいて、心安らぐひと時を過ごしていただければと思います。

当小谷寺は、戦国時代の江北の雄、浅井長政の居城であった、小谷城跡の近くにあります。お市の方も、娘たち三人を連れて幾度となく参拝に詣で、ご本尊に祈願したことでしょう。そのお市の方のお手植えだと伝わる松の木が山門の前にありましたが、十数年前の台風禍で倒れ、今は切株を残すのみです。

幼いころ、その松の周りをぐるぐる駆けて境内で遊びました。高校生のころ、期末テストが終わった日の午後、クラスメート十数名と連れだって小谷城跡へ行ったときは、この松のそばに自転車を止めました。ファインダー越しに見た、松を背に夕日にまばゆく映えた、ある同級生の姿が今も残ります。

白山開祖でもある泰澄上人が当寺の開祖だと伝わることから、寺歴は千数百年にさかのぼります。その後の栄枯盛衰を経て、今は、小谷山のふもとにひっそりたたずむ小さな寺ですが、ご本尊開帳に合わせて多くの方に来ていただくことを檀家一同心待ちしております。